上村淳之先生の訃報にふれて
「芋畑で野兎が子供を連れて遊んでいたり、桃畑でキジの親子をみることができる」
松篁先生がこれを聞き、自然豊かな奈良の丘陵地に求められた土地は、まさに鳥の楽園だった。
そこを瑞鳥が鳴くという意味で、唳禽荘と名付けられた。ここには戦中の疎開のために、晩年の松園が京都から移り過ごしていたが、その没後に淳之先生のアトリエとなった。
2012年の松伯美術館での授賞式よりご縁をいただき、日本画の世界へと導いてくださった上村淳之先生。
学生時代には先生の講演会がとにかく面白く、かかさず足を運んだ。
2018年に学校を卒業後、松伯美術館の学芸員として働きながら、唳禽荘の先生のアトリエの斜向かい、かつて松篁先生が使っておられたアトリエで制作をしながら、先生の花や鳥たちへの優しいまなざしや芸術家としての生き様を身近で勉強させていただいた。
松伯美術館では、年間を通して上村三代についての展覧会を担当し、特別展の米寿記念展や、私自身もお世話になった花鳥画展の企画にも携わった。
一方で、私の個展にも先生は足を運んでくださり、またアトリエで多くのご助言をいただいた。
シギ、孔雀、鶴に鷹…唳禽荘での最初の一枚はやはり松篁先生も作品に多く残されたシマハッカンを描いた。上野の森美術館での受賞の際には真っ先に先生に報告し、誰よりも喜んでくださった。
唳禽荘に来て、先生のもとにいることで見えてきたのは、やはり先生が背負うお立場の重責と重圧であった。
文化勲章受賞の際には、翌朝朝一にと思い、先生がまだ寝巻き姿のままで出てこられたところへ花束をお渡しして喜んでいただいたのを覚えている。
思い出は尽きないが、日本でも稀有な立場や年齢にそぐわぬ仕事ぶりから一度先生に、その精神的な強さの理由をお聞きしたことがある。
ぽつりと「神様やからなぁ」と仰られた、ふと見上げられた目線の先にアトリエの窓から鳥たちの姿が見えた。
鳥や花を自らの手で育て、描かせていただいている、という畏敬の心。自然に教えられ、見えてくる優しく厳しい世界を、先生を通してほんの僅かでも触れることが出来たのは私の人生にとって何より幸せな時間だったと感じている。
先生の別荘の青い芥子を描きに長野へ同行し、標高の高い、山間の霧の中を飛ぶ鳥の背を見て、はじめて日本画の象徴空間を理解することができた日のことを懐かしく思い出す。
あの鳥よりもさらに遠いところへ行ってしまわれたが、今も尚、気づきとなって制作の折に触れる。
格調高く、深く。
「大村さん、高く、深くや」
先生の聞き馴染みのある楽しげな京都弁を思い出しながら。
ご恩は絵でお返しします。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。